歴史ブログ

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東と西を繋げたモンゴル帝国の皇帝テムジン

世界を繋げたモンゴル帝国

 


モンゴル帝国

 


それは歴史に残る長大な帝国の名の一つだろう。

 


中華やイラン、ヨーロッパだけでなく、日本にも多大な影響を与えている。

 


そして、東西の陸路を一つの国家が繋いだ初の国家でもある。

 


中華にもいくつか記録が残っている。

 


 


 


 


中華を支配した国はいくつもあるが、

 


どの時代の王朝の都市でも、中華の首都は国際色豊かな様相だったと云われている。

 


漢であれば、ローマ帝国からの使者が来たと言うー逸話も残っているし、

 


唐の時代には、金毛碧眼の美女が街を歩いていたなんて話もある。

 


しかし、元の時代は統治者そのものが、外国のモンゴル人。

 


役人たちはみんながみんな外国人の少数民族だった。

 


漢民族じゃあない。

 


中東人の多くが、元政府では働いていた。

 


ただ当時は、中東の商人の力がとても強かったということも頭に入れとかなければならない。

 


イラン商人やトルコ商人。

 


彼らのユーラシア大陸の陸路における活躍は彼らのものだったのだ。

 


だからこそ評価され、モンゴル帝国の国家運営に関われたとも言える。

 


そして、反面。

 


長大な万里の長城を築きあげ、北方の人間を蛮族として扱い、北へ北へと遊牧民たちを追いやってきた中華の漢民族は、殊の外嫌われたわけだ。

 

 

 

 


そして、その大帝国を築いた。

 


チンギス・ハーンの名前で有名な1人の成人、テムジン。

 


彼の作り上げた帝国が、東西を一つにつなげた。

 

 

 

 


だが、ここで誤解のないようにしたいのが、

 


彼らの支配は、強力なものじゃなかったってことだ。

 


反乱を起こさず、納める物を納めれば無理は言わない。

 


というのが方針だったようだ。

 


但し、裏切ったり、納めるべきものを収めなかったときには、一切容赦しなかったと言う面もあるのだが。

 


1人でも反乱に加担すれば、街ごと焼いた、なんて言う話もある。

 


しかし、実際にこれがされたのかどうかは全くわからない。

 


何故なら、彼らは情報戦にも長けていたからだ。

 


正直、彼らはそこまで強いわけじゃなく、初のヨーロッパ遠征ではボロ負けした、という事実もある。

 


それでも、二度目はない。

 


二度目には必ず大勝した。

 


敗戦した理由は何か?

 


地形か?部隊構成がまずかったのか?敵の武具に優れた部分はなかったか?

 


などなど、多くの情報を収集し、研究し、勝利したのだ。

 


これが、単なる略奪者ではなかったということも示している。

 

 

 

話を戻すが、

 


彼らの帝国は、彼らの草原を得るために行われたものだということだ。

 


先程の、イラン人を役人にして漢民族を下に置いた、ということだが。

 


これは、【農耕民を追いやって草原を取り戻した】と言う意味でもある。

 

 

 

彼らの財産は、羊や馬だ。

 


土地じゃない。

 


土地を財産だと思うのは、農耕民族だからだろう。

 


彼らの財産は、羊であり馬であり、そしてそれらを養える草原なのだ。

 


漢民族は、歴史に名を表して以来の農耕民族だ。

 


当然、土地を耕し、草原を農耕地に変えていくことで繁栄していく民族だともいえる。

 


遊牧民族とは決して相いれない人種なのだ。

 


だからこそ、彼らにとって遊牧民たるモンゴル人は、蛮族であったわけだ。

 


現代においても、その争いは途切れていないだろう。

 


草原を潰し、家や工場、ビルを乱立していく有様に、多くの遊牧民たる彼らはどういった思いを抱いているのか。

 


想像もできない。

 


【黄金色に広がる草のある大地と水場】

 


彼らの移動はこれを求めてのものだ。

 


その理想郷を求め東へ西へ移動する。

 


彼らにとっての優れたるリーダーは、次の理想郷へと一族を導くもののことを言うのだ。

 


逆に、そうでない者を彼らは認めない。

 


草も水もない場所では生きていけないからだ。

 


部族間の争いに負けた一族は、有力なルートから追い出されることもあった。

 


一定周期で巡ることのできる有力な幾つかの草原を彼らは一族ごとに保有している。

 


彼らにとっての土地とは、そのルートのことを言うのだ。

 


しかし、だからこそ、天候の変化には弱い。

 


干魃や嵐で、水場や草原が無くなったり移動したりすることもままある。

 


そうなると、一気に食糧難に陥ることになる。

 


そうした時にこそ、遊牧民たちは農耕民たちから略奪する。

 


草原のルートが崩された時にこそ、彼らは争うことになったのだ。

 


天候だけではない。

 


農耕民族が、彼らの草原を農耕地に変えようとした時にも、同じように戦が起こった。

 


まさに土地の奪い合いだ。

 


しかし、その意味は大きく異なる。

 

 

 

土地があれば農作物を作れる農耕民と、土地があっても草原が無くなってしまっては生きていけない遊牧民とでは考えの基礎が異なるのだ。

 


だからこそ、争いは容易には収まらなかったし、農耕民と遊牧民の間が間柄は険悪だ。

 


チンギス・ハーンは、そういった大きな草原ルートを手に入れた遊牧民の英雄たる人物だったのだろう。

 


モンゴル帝国の広大さは、ひいては草原地帯の広さをも表している。

 


逆に言えば、湿地帯には彼らは足を踏み入れない。

 


だからこそ、インドなどは支配地域には組み込まれなかったのだろう。

 


仮に、インドも湿地でなく広大な草原の一部であったなら、モンゴル帝国の一角になったことはいうまでもないだろう。